本棚って・・・

引っ越してから1年の間に本棚にするものを大小合わせ5つ買い足した。

ふたつは壁面収納といわれるもので、すべてが本のためというわけではない。奥行が40センチという浅い壁面収納の方は、棚の奥に本を並べると、前半分が余ってしまう。かといって前列にも本を入れると、後列のものが見えない。
201412b1.jpg
ほらね、無駄なスペースだよね。どうする?
いっぱい、しまいたいのにねえ。

ということで、こんどは本棚専用として2段収納を意識したものを購入。前後の棚をずらして設定すれば、奥の本のタイトルが上部だけは見えるので、本を探すのが楽だ。
201412b2.jpg
これは便利・・・と思ったのもつかのま。段のピッチはこまかく設定できるものの、過不足なくぴったり収納というわけにはいかない。難しいものだ。しかも、前後に本を配置すると、めちゃくちゃ重たいだろうということに気づいた。この本棚の一帯はどれほど床に負担がかかっているのだろう。結局、重さがかかりすぎるのをさけるため、ひとへやに本棚を集中させるのはあきらめた。

本が収納できたら、古いスライド式本棚を捨てようと思っていたのだが、これも結局残留。文庫本なら入るが、A5番は奥行きが微妙に入らず、しかも固定棚が多く、ピッチの調整がほとんどできないので、汎用性の点で劣るのだが、仕方なく、フィギュアなど入れてある。
201412b.jpg
この棚に合う、奥行がなく且つ縦長の本はあまりないよね・・・。折り畳み方式の地図がたまにあるくらいだ。

本棚にするだけなら20センチくらいの浅いものでよかったのだなあと思う。・・・ということで狭いスペースには奥行き20センチ程度の文庫本用本棚を一つ、更に引き扉のついた戸棚を一つ購入し、文庫本や新書の収納に当てている。奥行のない本棚は安定が悪いので、突っ張り方式のものにする。各部屋に文庫本などを分散させたけれども、取ってつけたような本棚との不統一感も相俟って、なんだかどこも片付かないで終わった気がする。

ああ、きちんと収納したかったのに。

2015/01/10(土) | 本の周辺 | トラックバック(0) | コメント(2)

どこまでも歩ける靴を探して

11月の後半の連休、自宅の近くでやっていた須賀敦子の世界展を見に行ってきた。

20141122yt.jpg

横浜の観光地とはいえ一歩奥まった場所にある文学館に、午前中から結構な人、人、人。狭い会場に100人近く入っている。須賀敦子は一般的に人気作家というわけではないので、この混み方は意外だった。訪問者の中心は私たちの世代かそれより前の世代たが、若い人の姿も見かけた。

須賀敦子にひかれる理由は何なのか自分自身でもわからない。私が読んでいたのは須賀敦子の自伝的要素の強い随筆ばかりであり、特段面白いと感じているわけでもない。それなのになぜ?足りぬ頭で少し考えてみた。

カトリック左派、シモーヌ・ヴェーユ、M.ユルスナール、M.デュラス、ノーマッド、靴、フランス、修道女、ベネチア、ミラノ、トリエステなどイタリアの町々・・・。彼女が繰り出してくるキーワードのいくつかが自分の若いころに興味を持ったものに重なる。当時の日本では珍しい西洋の文化・文学を理解できる知識階層に属し、わかるものにしかわからないインテリジェンスを持っていることを強く意識していた須賀敦子。凡庸な一個人の私は、彼女の知性に憧れ、バックボーンに惹かれ、彼女が書いたものになんとなく触れたくなるのだろう。

「きっちり足にあった靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで、生きてきたような気がする。」(須賀敦子)

足に合った靴さえあれば、どこにまででも歩けるはずという彼女の言葉。彼女をもってしても見つからなかったもの。

それがあればきっと先にすすめるにちがいない、自分に合った何かを探せたら、人生はどのように展開したのだろうか。探し求めて彷徨った青春時代はいつの間にか終わり、今は雑事に忙殺されて、何も見つからなかったことも忘れてしまっている。そんな毎日の中で、須賀敦子の世界展が私のアンテナに引っかかったのは、私も心のどこかでまだ足に合った靴を探し続けているからかもしれない。

2014/11/23(日) | 本の周辺 | トラックバック(0) | コメント(2)

私を離さないで

「私を離さないで」という題名が直接感情に訴えかけてきたのか、手に取ったら買わずにいられなくなった。文庫本の帯には映画化されたことが書いてあるが、カズオ・イシグロの小説であるからには、感傷的な恋愛小説の様なタイトルとうらはらに、かなりクールなものの予感。そして、読後、この本は、あまり読書をしない私にとって、ここ数十年で一番衝撃をうけた小説になってしまった。

静かな世界で突然起こる小爆発の様な出来事に、不協和音に似た落ち着かなさを感じながら読み進むと、おぼろげながらわかってくる特殊な世界・・・。「私を離さないで」というのは小説の中に出てくる歌の曲名であるのだが、曲に合わせ赤ちゃんに見立てた枕を抱いて踊る少女、それをみて涙する婦人が、小説の奇妙な世界を解いてゆく伏線になっている。登場人物の奇異なせりふや行動で、種明かしは徐々になされるが、もし、まだ読んでおらず偶然このページにたどり着いてしまった人がいたとして、ネタばれが嫌かもしれないので一部白字にしておく。

人間に臓器提供するために作られたクローンの子ども、それを成人するまで育てる学校のような施設、この制度を支える組織、そして臓器提供の後死んでゆくクローン、そんなクローンの介護をおこなう役目を持たされるクローン・・・・。同じ施設で育てられながら臓器の提供者となるか看護に回るか一旦道は分かれるが、いずれにせよ最後は提供者となり死んでゆく。何も知らずに生まれ、普通に人の感情を持ちながら成長するが、やがて自分が人間のために育てられた産物だと知る。恋愛はできても、クローンなので子どもはできない。そして、何度かの臓器提供をこなし、用が済んだら死んでゆくという運命を受け入れなければならないのだ。

食肉のため育てられる動物たちにも感情や痛みがある。私もそれを知りながら、バクバク肉食しているのだが、この動物たちを人間のクローンに置き換えられたらどうなのだろう。医療・科学の進歩は、過度に進むと、神の領域に入る宗教上の冒涜行為ではないのか。そもそも科学と宗教は対立を繰り返した歴史を持つ両立しがたいものではないのか。この小説がショッキングだったのは、クローンの問題を扱っているからなのだが、考え始めると小説の感想から飛び出してしまうのでこのへんにしておこう。


イシグロの作品は、このほかにはブッカー賞をとった「日の名残り」しか読んだことはない。英国貴族のお屋敷に仕える年老いた執事の誇りと、変化する時代に昔を懐かむセンチメンタリズムを淡々と描いている。

どちらの小説も、抗うことをせず、従容と滅びの時を待つ人の諦観の中に、自分の使命を達成するというほのかな明るさが見える。だが、その光は、黎明の明りなのか落日の日の名残りなのか判然としないのだ。

2014/07/16(水) | 本の周辺 | トラックバック(0) | コメント(0)

 |  HOME  |